|
お見合い文化が盛んであった昭和の時代には、茶道は花嫁修業として未婚の若い女性にもてはやされた習い事でした。 茶道の教室は町々に多数あり、なにしろ、茶道の流派は数百家以上あるといわれています。ただし、メジャーどころで学びたいとなれば、千家の名を持つ三家となります。すなわち、「表千家」、「裏千家」、「武者小路千家」です。 ★流派の名前からわかる通り、三家とも流祖は「千利休」です。 利休が豊臣秀吉に切腹させられたのち、本家の堺千家を子の道安が継いだが、道安没後に断絶。利休の養子で娘婿である少庵が千家(京千家)を再興し、子の宗旦に流派を託しました。 その後、宗旦の子供である三男の宗左が京千家を継いで表千家を、四男の宗室が裏千家を、次男の宗守が武者小路千家を興しました。 時を経たこともあり、各流派ともそれぞれ違いがあります。 ★とりわけ、表と裏の冠を持つ二家の場合、表千家が正統派なら、裏千家は革新志向といえるでしょう。 たとえば、薄茶の点て方に表千家と裏千家では違いが出ています。裏せけでは茶筅(ちゃせん)を勢いよく動かし、シャカシャカと音を立てて泡が立つように点てますが、表千家の薄茶はそれほど泡を立てません。 また、所作も微妙に違います。 一畳を四歩で歩く裏千家に対して、表千家は、六歩です。茶筅は表千家で煤竹(すすだけ)、裏千家で白竹など、道具にもこだわりがあります。 現在、最大の流派になっているのは裏千家で、一般に向けた茶道普及のために組織化を図り、海外にも多くの支部を作っています。 ★最後に「表」と「裏」のいわれについて、宗室の家が兄の宗左の邸裏にあったことから、「裏千家」と呼ばれるようになったと伝えられています。 |
||||
Copyright (C)2015. 誰もが不思議に思う素朴な疑問All rights reserved. |